「あなたの尊敬する人は誰ですか?」
今はどうかはわかりませんが、私の世代では、就職面接などでよく聞かれた質問です。
親、先生、お世話になった人、いろいろな答えの中で、「歴史上の偉人」を挙げる人もいます。
私は、どうも、この「偉人」というカテゴリーについて懐疑的というか、話半分で聞いておいたほうがいいんじゃないかなぁ、といった意見の持ち主です。
理由は二つあります。
まず一つ目は、「偉人」というものは半分(もしくはそれ以上)が、フィクションで出来ているからです。
結局のところ、人から聞いた話でしかないわけで、実際に見たわけではありません。
私たちが知り得るのは、「あの人が将軍だった」「あの人がこの会社を作った」「あの人が革命者だった」その事実のみです。
その事実ですら、間違って伝わっている可能性もありますし、実は別の誰かの功績でした、なんて可能性だって大いにあります。
大筋ですら合っているかも怪しいのに、細かい出来事や、「この時にこの人はこういう志を持っていて、それを貫いたから偉業を成せた。」なんていう話は、もはや妄想以外の何物でもないと思うのです。
二つ目は、「人間はチームで動く生き物」だからです。
誰かが何かの偉業を成したとして、それは絶対にその人個人の力で成しえたわけではありません。
チームと言っても、理想的なリーダーなどではなく、奴隷と主人の関係だったかもしれませんが。
それでもやっぱり、その人個人の力で物事を成したわけではありません。
個人で動いているように見える、芸術家、発明家でさえ、誰かにインスピレーションを受けたり、アイディアを模倣したりしているのは誰でも想像できるでしょう。
「確かに、個人の力ではないかもしれない、だけど、その人には人を動かす強大なリーダーシップがあったんだ。」
この意見に対しても、私はノーと言いたいです。
そのリーダーシップでさえ、他人の力を借りなければ作り出せないのです。
奴隷がいなければ主人にはなれない、という話ではありません。
奴隷をどううまく使うかを一緒に考えてくれる人がいなければ、奴隷を使うことはできない、という話です。
この二つの理由を合わせて考えて、簡単にまとめると、つまりはこういうことです。
「私の尊敬する人物は、歴史上の偉人です。」と言うことは、「私の尊敬する人物は、ドラゴンボールの孫悟空です。」と言ってることと大差ないんじゃないか?
と、まあこういう着地点になるわけです。
それが悪いというわけではありませんが、やっぱり生身の現実の人間と漫画のスーパーサイヤ人を混同して考えるのはもやもやしたものが残ります。
その代わりではないですが、私は、先人が残してくれたものには、感謝しています。
苦しい時に助けてくれるような知恵であったり、平和な世界であったり、楽しい娯楽、便利な道具。
それらはみんな、安月給に文句を言いながら、大勢の誰かがチームを組んで築いてきたものです。
なんだかよくわからない、いるんだかいないんだかわからない記録上の個人よりも、私はそっちの方に目を向けていたいです。